レストアされた ハラマRS(レーシングハラマ)。 イタリア語で JARAMA(ヤラマ)と発音します。
この車両は元開発テストドライバー、ボブ ウォレスの手によって製作されたといわれています。
ブログアーカイブ
2001 9月 ハラマRS(レーシングハラマ)
2001 9月 ムゼオ (サンタアガタ、ランボルギーニ博物館)にて
「日本からはるばる来ました。」と言うと、「それはようこそ。」 なんと私たちだけのために開館して下さいました。
これはフェルッチョの精神だそうです。貸切。感動!無料。これぞまさしく感無料!(?)
ご存知 Miura P400SV (これは生前にフェルッチョが所有していたもの。ライトにはまつげがついています。)
2001 9月 ランボルギーニ本社
ランボルギーニ本社 私の母と
ランボルギーニ社は現在、車の製造以外には主にエアコンや電機製品などを製造しています。
これはその部門の本社正面になります。(実はイタリアではこちらの方が有名です。)
正面玄関前には生前の社長の思い出となる石碑があり、そこには好きだったミウラのデッサンも刻まれてありました。
2001 9月 Ferrari 750MONZA
Ferrari 750MONZA
きちんとレストアされており、すぐにも走りだせそうでした。この年代のフェラーリはため息がでるくらいのボディデザイン。コンピュータの匂いがしないヒューマンな感性が感じられます。アナログ世代の私には一番印象に残りました。
2001 9月 Ferrari 288GTO Evoluzione
Ferrari 288GTO Evoluzione
マラネッロのガレリアフェラーリにて。オールカーボンボディ。ボディを斜めからかざしてみると織物のようにカーボン目が確認できます。フェラーリ社が3〜4台製作したということになっていますが、ご存知のように実はミケロット製というのはあまりにも有名です。日本とは違い触ることができました。F40に比べるとボディパネルの厚みが薄く造られています。タイヤはピレリのレーシングスリックが装着してありました。
2001 9月 スーパーカーの聖地へ。
ルノーのレンタカーをモデナで借り、モデナ> ボローニャ> マラネッロ> ミラノ> サンマリノ> サンタアガタ> ミラノ> モデナまで2000キロの旅。(スーパーカーの聖地へ。もちアウトストラーダも走りました。)
これはボローニャの山中で道に迷うの図。(なぜか笑顔!)ルノーはもちろん5MT。(もっとも僕は今までずっと左ハン+マニュアルMTだったので違和感なしでした。)イタリアでは8割以上がいまだにマニュアルのようです。新車でとても乗り易く絶好調でした。
P.S
その時、私はボローニャの山中にいた。 そう。…..9月11日。
ルノーに乗り山道を飛ばしていると、携帯電話が鳴りました。どうやらミラノに住む妹からのようです。
「お兄ちゃん大変!アメリカが、戦争よ!ニューヨークが大変な事になってる。」
なんでもワールドトレードセンターに飛行機が墜落したとのこと。こりゃ、大変だということで、急いでアグリツーリズモ(農家の離れが旅行者用に改装してある)の家に戻りテレビをつけました。「うーん、さっぱりわからん。ニュース解説が早口だし。」しかも片田舎ときて、テレビもろくに映らない…
なんとイタリアの空港が全部閉鎖。見通しがたたないそう。日本に帰れないかも!これには参りました。
…….でも、さすがのイタリア人。町(村)の人たちは全く気にせず平然としています。私には他人事には思えません。
さて。その後、どうにか飛行機に乗ることは出来ましたが、それはもう大変でした。
2001 9月 イタリア旅行
2001年9月 私は長年の夢であったイタリア旅行をついに実現させました。
移動は車を使い、マラネッロでは念願のフェラーリ本社、サンタアガタのランボルギーニ本社、そしてサンマリノのイモラサーキット(エンツォ.エ.ディノ.フェラーリ)等、すべて自分自身の運転のみで行くというもの。
車はレンタカー。予算の関係で今回は残念ながら、ルノー1800ccでした。(でも速かった。)
これはマラネッロのお土産やさんの前で。(朝早かったのでまだ閉まっていた!)
PS. イモラサーキットに到着したときは、あのタンブレロ(高速コーナー)をさがし、アイルトンセナのためにお祈りをささげました。
Ferrari 250GTO
フェラーリブランチにて。(松田コレクション)
私の最も好きな車。官能的なボディーライン、それは操縦席に乗ってもみることができます。
フロントフェンダーの淵がなんと○○○にみえます。(答え おしり。)